Mana kunchi no heya
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文章書き、食べ物、写真、脳性まひ、希望、夢、前向き、介護職員、ヘルパー、電動車いす、散歩、パソコン、ホームページ作成、ラーメン、うどん、握り寿司、長野県、喬木村、不自由さのないマイナス面をプラスに持っていく生き方のページです。


 子ども本を読まないのに なぜ書けるの? 子ども

 2025年1月

いまから5年前までさかのぼる。母が入退院を繰り返し、一人で家にいることが増えた。そんな中、一つの言葉が目につく。もしかすると、新聞記事を参考としたのかもしれない。辞書ではこう説明している。「真中〈まなか〉と読む。その意味は、物事の中心・中央。また、物事をしているさなか。まんなか」。年賀状を出し忘れた場合や、喪中の知らせがあった人に寒中見舞いを送るつもりで、はがき通信面のデザインをパソコンで作った。「さまざまな境遇の中、生活している、全人類。たとえば高所得、生活保護、いろいろでダーツの的す。人は「助け合い精神」が、ポイントなのでしょう。さらに、支える側、受ける側ともに、中心位置にいると、自覚していきたいです」。デジタル文字で自分の気持ちを、分かりやすく表わそうとしているが、理解を得るのにはいま一つ物足りない。決め手となるタイトルは、黒マジックで書いた自筆の3文字がはがきの中央にくっきりと見える。感謝の意と同時に胸の中で駆け回る、人に頼る切なさが出ているみたいだ。「私、真中」である。


乙巳(きのとみ)にあたる2025年、寒中見舞いの時季を迎えた。今回は簡単に済ませたいという思いで、年賀状で使ったデザインを、横書きから縦書きに変えたほかはそのまま。心の内が穏やかな証拠ともなるか。この文章の書き出しとなった「真中」の再発見から、いまの生活がずっと続くようにと思わずにはいられない。多くは蛇を嫌う人ばかり。私たち親子も同じではあったが、毎年、年が明けてみると母からの一言あり。「初夢はどんなものだったかな?」。ほとんど(初夢は)何も見ていないので答えることがなかった。が、あるときのこと。広告紙の裏へ母が絵を書きはじめた。「玄関先に一面、水が張っていてね。そこに大きな蛇が泳いでいたの」。夢の再現を細かに描いていて驚いた。でも蛇の夢はここまでで、金運に恵まれたわけでもない。むしろ、平凡な運がラッキーとも思えそうだが、何かあるかなと考えたら期待感が生まれ楽しみにもなるかも・・・。へび蛇は爬虫類の一種で、何度も脱皮し再生力が強いことで知られている。執念深い、陰湿のマイナス的さを、辛抱強い、粘り強い、賢いと変えてつけ加えたい。これを応用して、十干十二支(じっかんじゅうにし)で60年に一度訪れる乙巳の由来ができたらしい。「発展と再生を意味し、努力が実を結ぶ威勢のある成長の年(サイトから抜粋)」。たとえ乙巳の年に、目標や願いが達成できずとも継続する気持ちで臨めば、よい結果につながると結んでいる。巳年の年賀状を見る毎に思い浮かぶ〈ビジネスことわざ〉はこれっ。「長い物には巻かれよ」。自分からみて、何らかの指示をする人には、ペコペコと頭を下げ謝るべし・・・。本当にそれが無難と、ケアを受けながら感じてしまう。あぁぁ、ペンの走りの関係で方向が違ってきている。「真中」に落ち着かせておきたい。


1ヵ月くらい前、辰年が押し迫る中、養護学校時代の友だちからメールが届く。いつものSNS通信風のあっさりメッセージに目を通す。「○○君のこと知ってる?」。先へと気を回すかのように、こちらも問いかけた。「○○君に何かあったってこと?」。続いての返信がくる。「そうっ、そう。今年の2月だって・・・」。メールで知らせてくれた友だちは一つ上の先輩で、亡くなった彼と私は同い年。その瞬間から、F君のいろいろな記憶が走馬灯のように去来する。国家公務員で長らく食糧事務所に勤めていたお父様と、少し小柄で渋そうな顔のお母様を両親に持つ。兄弟は姉と弟でその「真ん中」。頭のよさは抜群、知能指数も生活年齢に等しく、リーダーシップ的な存在。そこに立ちはだかるものを障壁とするなら、身体的なハンディキャップを理由にしてよいか。いや、違う。重度の脳性まひを自分の一部だと認め、何も気にせずやりたい電車ことを楽しんでいたと思う。家の近くでおばあちゃん(祖母)におんぶされて、飯田線を走る電車の風景を眺めていたというエピソードも聞く。同級生となった高等部時代は、国から民間に移行をしたJRなど鉄道に関心を持ち、月刊雑誌や時刻表を手にしていた。鉄道ファンの彼の個性と活躍が光るのは、そのあととなる。


卒業後は、施設、自宅それぞれの道を進み、5・6年の時間(とき)を経て再会する。「列車に乗ってみたい、旅をしたい」。全国的に知られはじめ、ひまわり号伊那谷実行委員会が発足。障害者団体臨時列車(貸し切り友情列車)・ひまわり号が、飯伊(飯田下伊那)地区で初めて走ったのは19851020日。ご飯上伊那地区と合同主催にて、上諏訪への旅に出かけた。電車での出会いだけではなく、もっと日常生活で触れ合いを求めていきたいという声が高まり、新たに「すいじんぐ倶楽部」が誕生。みんなでご飯を食べ、暮らしについて語り合う場にしようとの意味が込められている。国際障害者年を機に「完全参加と平等・・・すべての人が安心して住めるまちづくり」の推進が活発となっていく。活動中心メンバーの一人がF君だった。


ひまわり号の広まりに驚き、恐る恐る旅に参加してみる。1990年名古屋東山動物園行きでコアラと初対面。「恥ずかしいからちょっとだけよと、高い木に上ったきりのコアラちゃん、はるばる日本アルプスの谷間かコアラら友情列車に揺られてきたんだよー」。浜名湖・三ヶ日みかん狩りをしたのは、その翌年であった。「みかん、もぎ取り食べ放題OKでも、配られたビニール袋や胃袋は入る量が決まっています。長野のいちご狩り農家のお隣さんより・・・」。みんなで旅するのは味見が違い、思い出一言が楽しく読めそう。一人での行動ではできる範囲が決まってしまうが、そんな性格の自分を褒めてやりたいとも思う。


「これならば人に頼ることなく、どこへでも行ける」。(両手だけで運転ができる)身障者用手動式改造車にて、普通運転免許を取得してから今年で43年になった。当時、免許を取った一報がたちまち、年齢差が少ない養護学校同窓生の人たちに知られていく。刺激になったのかは別の話であり、のちにトヨタ・カローラに乗ってわが家へ訪ねてくれた、同じ障害を抱えるF君のがんばりを称えたい。今度は彼が先行する形で、家庭づくりをはじめた。寝泊りはバリアフリーの県営住宅で過ごし、授産施設では昼間のみで活動をする計画だ。すなわちサラリーマンであり言い直すと、普通の暮らしをした結婚いとの思いからであろう。昼の活動場で恋が芽生え、その人を妻に迎えた。職場結婚の知らせを受け、やったなと感心する。披露宴の席から新郎新婦に近寄り一言漏らす。「よかったな、幸せになれよ」。身体状態がどうであろうと、一つの家庭ができあがった。F君の別家誕生話。私も結婚にあこがれて必死にもがいたが、彼と肩並べをするには及ばずで終わった。


2020年の春、F君からの呼びかけを受けて授産施設まで行く。広い食堂に入り待っていると、メールで訃報を知らせてくれた一つ上の先輩がいた。彼(F君)も含めしばらく3人で語らっていたら、そこへ諏訪からカップルがやってくる。ご主人が私と同級生だ。全員で5人の同窓会となった。満60歳を目の前に自分がデジカメで撮った写真は、諏訪の夫妻を写した数枚だけで当時の身体状軽食態は芳しくなかったと分かる。みんなも、できないことが増えていた。ショートケーキやお菓子のほか、ジュースを飲みながら雑談がスタート。はじまりが遅くなった分、迎えを頼んだボランティアさんがきているかと考えると、冷や冷やだった。「私、真中」は、その2ヵ月前に出した寒中見舞いとなる。


頚髄症を悪化させてしまった私が授産施設へ足を踏み、F君を見たのは同窓会があった1年後となる。通所介護利用見学の目的からで、ほんのわずか顔を見たのがラストとなった。いつもの通り目を細めた表情の彼が中心にいて、周りに仲間がいる。自分が示そうとした趣旨とは違うが、リーダーシップはまさに「私、真中」ではないだろうか。一緒にひまわり号で旅をした人は、彼のことを生涯忘れない。


はじめてで最後の乙巳の年、目標や希望に近づいていく気持ちが増す、よきチャンスでもあるだろう。自分の身体を労わりながら、採血前向きに物事を理解して、よい方向に導いていけるよう、さらなる努力を惜しまない。世の中で言われている還暦を過ぎ、今年は満65歳となる。国の制度上では、高齢者の仲間入りといったところか。健康プラス心の若さを維持できるかは、自分のやり方次第だと思う。

2025/01/24

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