Mana kunchi no heya
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鉛筆暮らしの原稿鉛筆

文章書き、食べ物、写真、脳性まひ、希望、夢、前向き、介護職員、ヘルパー、電動車いす、散歩、パソコン、ホームページ作成、ラーメン、うどん、握り寿司、長野県、喬木村、不自由さのないマイナス面をプラスに持っていく生き方のページです。


  トップページでの説明のほかに「何かをやなければ」という気持ちが、当初、寝たきり状態だった自分を奮い立たせてくれた一言になった。病院の回復病棟でリハビリを受ける中、ノートパソコンで文字入力練習がスタートした。
 退院後、脳活として毎月一度、作文を書くようになった。やりがいが出てくる。
 この経過をたどって今日に至った次第。どこまで続くかは不明でも前進のみである。そうだ。「何かをやらなければ」。この思いが消えたときが、すべての終わりとなるだろう。だから書き続けたい。
 子ども本を読まないのに なぜ書けるの? 新芽

 2025年6月

身体の総司令を行う脳は、もっとも複雑かつ重要な臓器だろう。人体各臓器の連絡網として働く交感神経の存在を見聞きしていても、詳細は知らずにいる。生き生きとした生活が送れるとしたら、その人の脳は模範であり健康体だと思う。一方で、手足や全身の動作についても、脳の指示がないと正常な動きは見せない。運動機能一つを挙げても、脳の働きは優秀そのもの。たとえば、赤ちゃんが生まれ育つ過程で、両親や家族と触れ合いながら脳、自然に歩行、両手の使い方、言葉の発声をちゃんと覚えていく。この運動機能データを、赤ちゃんが持っていなかったらどうなるのか。想像もできないが、半分くらい壊れかけてしまった情報データを大切に生かす(不自由さの解消をする)ことで、子どもから大人へそして高齢者の仲間になった、いまの私がいる。


雨が朝から本降りとなった令和7年6月3日、国民に愛されてきた元読売ジャイアンツ監督・長嶋茂雄さんの訃報がメディアで飛び交う。近年ではテレビ・新聞でもお目にかかれず、なぜか遠い過去としか思えなくなっていた。プロ野球ファンでない立場で、元監督に触れるのは適切ではなさそうとも思う。同じ苗字を見る、聞くと即、浮かぶ人物はやはり元監督が一番手。「我が巨人軍は永久に不滅です」。引退セレモニーの名言を、中学2年の晩秋にテレビのスピーカーで聴く。自分のチームをこよなく愛する表現であると、そのときはそう思った。長嶋監督だったころは、教えを受けていた川上哲治元監督のように、在籍期間が長くなるだろうと期待を持つ。一度やり直して、松ユニフォーム井秀喜元選手を育て上げる。「お客様は神様です」というよりか「ファンのためのプロ野球」を目指す、長嶋監督の心意気がすごい。チームへの信頼とともに、大衆を喜ばせるベースボールに徹したといえそうだ。いつしか、実況中継の野球解説者やバラエティー番組などにも登場し、一味違う長嶋流が冴えわたる。皮肉ながら、このあとに私は元監督の動向が気になった。


時は平成16年、アテネオリンピック開催の半年前。元監督の身に異変が生じた。野球ゲームに情熱を燃やし、バットを振り守備では強い打球をグローブに捕る動きが、運動機能の余力となり身体の回復につながったと思う。故人が残した偉業を振り返る番組のVTRから、脳梗塞後遺症の状態を確かめることになった。利き手は腰のあたりに隠れている。入れ歯を外して話すかのような、言葉がままならない感じの発声に、なぜか我をみる思いだ野球道具った。脳性まひ後遺症は、確かに不利な面ばかりだ。そんな奴とも生まれて間もなくからのつき合いであり、うれしいとき、誰かに甘えたいとき、おいしいものを食べている瞬間、寂しくつらく悲しい思いがあっても、一心同体の暮らしをしている。この思いは60年以上が経っても変わらず、これからも分かち合える一生のパートナーであろう。だが、これは(私と後遺症の)両者のみの話。


元監督と同様にままならない発声のほかに、緊張が強いとどもってしまいがちな身。一般的にも、どもるという現象は、誰にも起こるケースがありと捉えておこう。もしや障壁があるとするならば、それはやはり脳性まひ後遺症を一体とみる、いつものことでなる。初対面やあまり話す機会がない場合には、相手を見ると内心、出てくる尋ねごとはこれだ。「何を言っているのか分からないときがありますかね?」。イエスの回答が多いと思う。勝負どころとはこの先にありそうな気がする。お互いに相手と向き合い、真剣に聞く、分かりやすく話す姿勢が持てることで、理解の一歩となるのか。ほかにたとえると会話したら、主役(の私)を赤ちゃんとみなし、ゆっくりとコミュニケーションをとると、一定の壁がクリアできるのではないか。私を育てた両親も、最初のうちは戸惑い悩んだ日もあったに違いはない。それでも時間をかけて、わが子の成長を見つめ、家族みんなで励まし合っていく。祖父母も含むわが家では、聴き返す行為はなく、ごく普通な会話が成立していたと思う。コミュニケーションのバリアについては、もう一つの難を控える。


ミルクを飲んでいた幼児期に、急に泣き出し数日間後に耳から膿が出た。中耳炎との診断があり、聴力が低下し聞こえにくさを伴う。ほぼ同じ時期、脳性まひ後遺症に加え難聴の組み合わせが整えられた。年齢とともに老化によるマイナス面から、より難聴度が高くなっていることは否定できない。また、耳鳴りも生じ、厄介な身体だとも感じ会話2る。支援策となるのは補聴器の装着、耳鳴りを抑える漢方薬か。その前に(言葉をかけたいとき)私に近づきながら話しかけてもらう。つまり、聞きにくさの手助けをしていただけたならありがたい。この上に立ちながら、少しでも充実した生活をするため、人との会話を大切にしていきたい。


幸いにも利き手が使えることで、電動車いすのかじ取り、スプーンや箸、ときにはホークを持っての毎日3度の食事、片手でパソコン操作が可能であり、右箸手は生活になくてはならなくなっている。さらに眼鏡をかけずに暮らせる状態であって、不自由な個所をカバーできる環境にあると自負する。思うように動かせない左手足はいまより悪くせず、自由な右側を負傷することがないように心がけたい。利き手を腰のあたりにおいている元監督は、どんな気持ちで後遺症と向き合っていたのだろう。


誰も想像はつかなかったと思う。6月3日の訃報と生前の偉業の数々。足取りをネットなどでたどったら、超美人な奥さんを見つけた。何を隠そう、昭和美人は国民的スターの妻にマッチしていて当然だ。しかし、64歳で死別している。その側面はどんなものであったのだろう。胸の内に悲しさ寂しさをためながら、余生を過ごしていたかと推量する。元プ野球場ロ野球選手でタレントの一茂さんは長男、残り3人の子どもたちも、それぞれの道を歩んでいる。家族全員での食事のほか、ファミリー旅行の機会もほとんどなかったそうだが、チームワーク精神を養っての、深い絆で結ばれている長嶋家であるに違いはない。


怖いもの見たさで書こう。人の生命の「設計図」と、たとえられるヒトゲノム。全解明に向けて、世界の研究者らの奮闘が続く。テレビ番組では、動き回る細胞の様子を分かりやすく立体映像として描いている。遺伝子情報は細胞の老化と、どうつながっているのだろう。端的に言うと、ある遺伝子の働きが低下していくことで、老化がはじまり、やがて生命の終止符を打つ。両親から受け継ぐものだから否定しようもないし、運命に任せるのが常識かな。その習わしを変えようとするために、老化細胞除去薬が誕生前にきている。部位に限ってでも老化を抑えられれば、私たちのライフプランは変化薬瓶すると思う。ミスタープロ野球・長嶋さんの歩みを振り返ると、生きようとする生命力の尊さを思わずにはいられない。いや、みんなそうである。それにプラスアルファ(生命力の研究)が、ヒトゲノムの解明となろう。

2025/06/25

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