政府が法で定める祝日ではない。今年、5月第2週の日曜日は、午後から雨が降り出す。五月晴れとなればよいけれど、この日に合う花が少し冴えないようにも思う。そうだ、赤と白のカーネーションが際立つとき。色にまつわる意味を、うろ覚えでも書いてみよう。赤色は贈るカーネーシ ョンで、後者は自分の胸などに飾る場合に用いる。現在の私は、白のカーネーションがお似合いか。心が曇るとするなら、白色とならざるを得ない若き人たちへの思いとなろう。いや、案じることの方がおかしいともなりそうかな。みんなそれぞれ、悲しみや苦悩を乗り越えて母の日を迎えた。
ショートステイ利用期間を終えて夕刻帰宅する。すぐさま、御霊様に向かった。「きょうは母の日だね。もう面影でしか会えなくて5年になるよ。そちらの暮らしはどうでしょうか?」。ご先祖様の位牌がひな壇のように並ぶ、その最前列の母が、私の心から話しかけてくる。「1年前は確か留守だったね。今年はこの日を忘れなかったの?」。これには参った。先月から自宅での生活をメインとしたため、外泊(ショートステイ)期間の短縮となる。 「お母さんのそばにいたかったのさ。夕方になってしまったけれど、1年に一度のお祝いをしようね」。母の日に帰宅できたのは、偶然にもカレンダーの関係からで、自分の気持ちではなかった。そのあとに、母の位牌に向けて贈った言葉がある。「ごめんなさい。たまたまだったよ。けれども、この日を忘れてはいなかったさ。このつぎのときは、何かの形を示したいと思います」。来年の約束をする。こんな内容で、母の日の親子の会話を締めくくった。
訪問介護のタイムテーブルによって、奥様集団こと、ヘルパーさんが身体ケアと食事の支度をしに訪ねてくる。彼女たちに聞いてみた。「先日の日曜日は母の日でしたが、どのように過ごしましたか?(子どもさんが何か気持ちを伝えてくれましたか?)」。仕事で来ているので、家庭のことは話したくはないだろうし、このような問いかけはほかの訪問先では少ないとも思う。「実家の庭は広いので母に育ててもらえばと思い、アジサイを贈りました」。30代前半くらいのヘルパーさんは、はきはきとしゃべった。嫁いでも実の母であり、温かな心の交わりがありそう。「子供夫婦は近くに住んでいます。今回の大型連休では小学低学年の孫を預かり、一緒に遊びに出かけました」。お孫さんの存在は元気の素となるし、子どもさん夫婦の親御さんに向けての感謝の気持ちもあると思う。母の日ではなくても、親子の絆を垣間見たような思いがした。その他では、恥ずかしそうな表情であっさりと話す。「2人の息子がいまの気持ちを伝えてくれました」。その逆とも思えそうな言葉も聞く。「別に何事もなくいつもの日曜日でしたよ」。帰宅時の夕方に訪問があったヘルパーさんは、私に少し気を回す。「お母さんがいなくて残念だけれども、その日のお昼にショート施設で、おいしいものが出たって話してくれたよね」。続けて教えてくれた。「息子がピンクのカーネーションを届けてくれる、お菓子は娘からもらった」と・・・。若いスタッフを除き、ヘルパーさんらは私と同年代であり、母ではなく自分自身がメイ ン人物となりうる。一方、支援者で近くに住む女性のDさんが、1週間後の日曜日に訪ねてくる。「家族みんなでちらし寿司を食べました」。わが家の室内清掃を済ませたあとで、私の質問に対する答えだった。みんなでごちそうをいただく、Dさん夫妻・若夫婦・3人の内孫、3代ファミリーならではの、母の日のひとときとも感じた。
母の日の由来を紐解いてみたい。「亡き母が好きだった白いカーネーションが、追悼式で参列者に配られたことから、カーネーションを贈る風習につながっている。・・・アメリカ・ウエストバージニア州出身のアンナ・ジャービスが、1908年に母をしのんで教会で式を行った。社会活動家で母のアン・ジャービスは、公衆衛生の向上、乳児死亡率を低減させる活動、南北戦争中は敵味方に関係なく負傷兵の看護に貢献。アンの功績や母に感謝する会への働きかけが共感を呼び徐々に広まっていき、1914年に当時の大統領が5月の第2日曜日を母の日にすると正式に宣言。国内の広がりでは、森永製菓が母の日に、大キャンペンをしたことが要因となった。〈ネットサイト「@DIME・アットダイム」から部分抜粋・一部参照〉」。花言葉から見ても、カーネーシ ョンの赤は「母の愛」という深い意味があり、続く感謝・気品・温かい心を指すピンクが、母への贈り物に人気があるという。まだほかに、ネガティブな軽蔑・拒否・嫉妬は黄色、青は永遠の幸福、私の愛情は生きている・尊敬が白で、色に沿った意味を持つ。こうして花言葉は、母の日に大きな役割を果たす。
大まか、うろ覚えは外れずに済む。5月第2日曜日の思い出は、60年以上の分厚いページになる。40ページとなるころまでは「歯歯の日」とかいって感謝の意は薄かった。それがどうだ。母の位牌に向かい「ごめんなさい 」と謝り、寂しそうな感じの65ページ目だ。こんな弱気でどうする。残された寿命を充実したものとすることが、かけがえのない身体をつくってもらった母への贈り物であろう。一歩一歩、人生の終着点に至るまで努力だけである。(昨年の64ページが未公開であるので、追加文章としたい)
毎年ゴールデンウィークのあと、第2日曜日にファミリー的な記念デーがある。その日、短期入所施設のお昼の食事で、いちご・バナナ・マスカットなどを組み合わせたフルーツ盛りが個別にあり、器に添えられていたカードが気に入った。矢車草らしきイラストと「おかあさん いつも ありがとう」のメッセージが書き添えられている。正直なところ私には、母の日のイメージが強い。けれども、とらえる思いによっては人さまざまであろう。ショートステイで会 う利用者の視点からだと、自分の相棒(妻)、自分自身、同居のお嫁さん、お嫁に行った娘を「おかあさん」と呼ぶケースがあるほかに、見知らぬ小さな子供に対し「おかあさんは…?」が使われることもしばしばか。花のイラストは、開花期が初夏からであり、記念デー「おかあさん」を連想させそうで、独自な思考を感じさせられた。
デジタルデータの中に、撮影記録日が2016年5月9日と表示された画像ファイルが見つかる。写真内容はこうだ。頬を真っ赤にした母が、食卓テーブル上に置かれたピンク色のカーネーション鉢に、両手を添えながら納まった。調べると、前日8日が母の日と判明。なぜ、翌日撮影したかは覚えがないけど、自分がデジタルカメラを使い、スナップショットをしたことは相違ない。このとき、カーネーションについていたカードメッセージには「おかあさん ありがとう」と、印刷されていた。「母の日に息子に感謝。ほんとうに幸せです。来年の母の日ではどんなプレゼントかな。楽しみです」。声帯をなくし、自然な声が出せない母から、即、文面での返答がある。うれしくなって、母からの知らせを自室ドアに貼り、その様子をデジカメに撮っていた。続けて気になるのは「来年のプレゼント」で、保存しているデータを見たが全く跡かたがない。逆 にくっきりと浮き上がったのは、画像ファイルが極端に減り、撮影情報すら雑な印象を受けた。つまり「来年のプレゼント・平成29年」が、親子ともに身体の衰え(母は心不全、私が脳性まひ二次障害の進行)という大きな転換期を思わせる。
訪問介護サービス、有料老人ホーム、短期入所事業を展開する施設で現在、お世話になっている。ここの代表兼施設長のBさんは、冷静な趣で力説する。「歳を重ねたからと、利用者の暮らしを制限したくない。現場は私の居場所であって、みなさんの家族にはなれないけれど、それに近い存在となれたら…」。この姿勢は、まず、個別トイレ習慣(おむつ→パンツへのステップ)からはじまり、機械浴に頼らない個浴をスタッフが支える。日中は普段着、夕食のあとでパジャマ(寝巻)に着替えを導く。3度の食事を、季節感あるおかずや誕生祝の特製メニュー、ときにソースかつ丼、ラーメンの提供などで彩りに…。今年5月、通販サイトでミルクコーヒー缶30本入りを 1箱手に入れ、午後のお茶のときに飲むようにした。共同生活の中で、こんな自由も認めている。自分のノートパソコンを持ち込むと、無料でインターネット接続を許可してくれた。古い肌着を新品のものに促す、破れた衣類も縫い合わせる真心がうれしい。施設構内の散歩もフリーで、電動車いすに乗って日差し避けの帽子をかぶり、雨降り以外は外の空気を吸いに出かける。「春は花桃、青々と茂る夏野菜、周囲の林の中から聞こえてくる蝉の声と赤とんぼの秋、冬には一面銀河世界と枯れ木の花」。四季の変化を感じながら散歩し、道中で通行人とあいさつをすれば心がすがすがしい。ここ数年前半病人みたいだった自分が、生き返ったような思いに駆られるときである。
人は誰でも、その人にしかない素質を持っていると思う。優れた部分を、どう生かすかも注目すべきではないだろうか。いつも頭に浮かぶ彼は、養護学校の先輩の魅力だ。時間さえあれば、オルガンやピアノの前にいた。驚いたのは、音楽会で得意なオルガンを前に、当時の刑事ドラマのメインテーマ(メロディ)を悠々と弾いてみせてくれた。有名なピアニストへと羽ばたいていても不思議ではなさそう。親戚の高齢女性と幼いころから中学2年までを、一緒に暮らしたBさんはいう。「子どもが好きで保育士になる人がいるように、私もお年寄りが好きで介護をやっている」。高校卒業後、OLからの転職がパート介護職員。充実した仕事に励むBさんの姿を見たご主人の勧めもあって、デイサービスがなかった地区で独立する。そのあと2005年秋、現在の高齢者向け福祉施設ができあがった。「もっと普通に!今まで生きて来たことを誇りに持って暮らしていただきたい。10年たっても 20年たっても この気持ちで地元に根ざした施設でありたいと思っています(HPから抜粋)」。称して「所信表明演説」ともなりそうな心意気が、個性的そのものである。「あなたは、こういう施設を見に行ったことがありますか?」。自 宅へ訪問するヘルパーや支援者に尋ねたところ、私が利用しているショート先(施設)の知名度が低いみたいで残念でならない。規模が小さいからか、何か介護支援専門員の間で遠慮しがちな点があるのか、考えてみても難しい。もしや先端を行く思考(高齢者施設だとは思えない暮らし)が、まだ浸透していないとみるべきだろう。
「青山先生が男親分なら、私は人呼んで女親分だぞ!」。「ケア・プロデュースRX組」代表、介護アドバイザーの青山幸広先生との間柄をこう語るBさんは、気強い面もアピールする。その意気込みがなければ、施設運営を賄うことはとても大変であろう。ショート期間に入ると、休みの日を除いて日中のケアをBさんにやってもらっている。偶然のなりゆきではあっても、お世話になるという意識が働く。スタッフ全員が動作やかけ声、ケアの方法が一致している。徹底した介護指導が万全。1時間半おきくらいに電動車いすからベッドに移り、尿パットの交換、排便時にお尻拭き をしてくれるので、肛門の痛みやかゆみは生じない。少し高めの広いテーブルを用意してもらって、そこで食事やパソコン操作が楽にできる。食事後、個室に設置された洗面所へ行くと、歯ブラシに歯磨き粉をつけてあり、横には水が入ったコップが見える。みんな介護スタッフのおかげで、一通りの生活ができてありがたい。
梅雨を前にしたある日、新型コロナウイルスの扱いが五類感染症になったことを受け、近くの幼稚園児たちがやってくる。つき添う保育士さんも明るく、子どもたちの中に溶け込んでいるように見える。元気よく歌いながら遊戯をし、なぞなぞクイズを出すなどして、頭の固い利用者を和ませてくれた。保育士さんはこう言って終始、笑顔が絶えない。「きょうのプログラムは、この子たちが考えたのです」。お別れ間際には、自分たち で作成したペンダントを、私たちひとり一人に贈ってくれる。ペンダントに書き添えられた「いつまでも おげんきで!」の一言は、紛れもないものと受け止めた。言い方を変えるとするなら、高齢者の仲間入りと認めることができるかな。ときどき、園児の裏側を歩き回るBさんもなんだかうれしそうに、子どもと触れ合う利用者を見つめていた。40分余りの園児との交流は、楽しい思い出と心に刻みられそうだ。
施設の介護支援専門員でもあるBさんは、有料老人ホームの入所を希望する本人と家族を交えて、より快適な生活環境を提供していると聞く。「2025年に満65歳になる自分はこの先、介護保険を使いながらどんな人生プランを立てるべきか…」。ひとり暮らしの人間として、避けては通れないことに直面しなければならない。はじめて書いたエンディングノートの内容を親しく関係のある人に、メールで送信した行為はまったくの不覚。「自分が何もできなくなったときに、見てもらうのがエンディングノートだよ」。こんなアドバイスをBさんからもらっている。世間知らずは直せるだろうか。一つずつ過ちを体験しながら、大きな課題をクリアしていこう。自宅生活において、お世話になるケアマネージャーのAさんと時折、頭の中でエンディングノートを開きながら、思いのままを話していきたいと思う。
母が生きているとすれば、今年の7月28日で満90歳。ショートステイにくる方々は、90歳前後が多いだろう。Bさんのお母様に会ったのは13年ほど前。こちらからお母様のことを聞くと、趣くままに答えがきた。「私の母は 、この施設にいます」。自分の親とほかの利用者も、一つの大きな家族とみなすことができそう。まさにBさんが目指す、介護の土台とはここにありだ。「おかあさん」の呼び名がしみじみと伝わる、そんな心温かな共同生活の場と思う。
2025/05/22
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