「大切な人の月命日をときどき忘れてしまう。冷たいよね」。あるドラマのセリフの一部が気になった。阪神大震災で親友をなくした娘に母親は語りかけた。「そうかなぁ。忘れるってそんなに悪いことではないと思うよ。それだけ、自分が前に進んでいるってことかな。思い出せるときに思い出せばいいじゃないの」。うん、うんっ、私もそう思う。両親の誕生日はすぐに 浮かんでも、命日は脳のタンスからは出てこない。忘れてしまった。一人っ子としては情けないが、父と母には夜眠りにつくとたびたび夢で逢う。嫌なことを忘れようとする人間の本質の一方で、衝撃的なできごとはちゃんと心に残っていく。人生はこの繰り返しであり、自身の成長につながる。いわゆる、出会いと別れの組み合わせセットを持ちながら、一生を楽しんでいくものなのか?。
パソコンの住所録データを見る限りだと、2008年前後に出会った教師がいる。大阪、名古屋出身の夫婦で、ともに学校に勤めていたが、子どもさんの健康に悩み、自然体験ができるこの地域にやってきたらしい。すっかり元気になった子どもさんは大阪へ戻り、いまでは家庭を築いていると聞く。夫婦教師は引き続き田舎暮らしで、個人経営学習塾に取り組む。住処を変えながら、やがて村内の中古住宅を買い、本格的に塾をはじめる。小学高学年のおさらい、受験を控えた中学・高校生への助言、近くの養護学校高等部の生徒を放課後に受け入れるほか、引っ込み思案の子どもにも目を注ぎ、福祉傾向の学習にも余念がない。庭の前に建てた看板に踊る文字は「共生学舎(きょうせいがくしゃ)」と言う。父が他界して寂しさが募る中、共生学舎・主宰のK先生が、私たち親子の話し相手、郡内泰阜村へもドライブに誘ってもらう。中でも 、仕事場兼ご自宅へ行くのが楽しみとなった。「塾の子どもたちの夜食に、みんなでラーメンをつくって食べるのです」。さっそく、その時間帯にお邪魔して一緒に麺をすする。「大阪生まれの僕は、お好み焼きづくりも得意なのです。今度はお母さんにも食事会としてお招きしますね」。食事を通して親睦がますます深まり、信頼できるお人柄に魅了される。母も言う。「私は学に相談されても答えられないときもあると思うから、先生にお願いしなさい」。知り合いのランクを飛び越えて、心の内を話せるK先生との出会いが生まれた。
K先生からのアドバイスや、支援はいまでも絶えることはない。「学さんに相談ごとがあります。自宅にいるのはいつですか?」。こんな内容のメールが昨年の暮れに届く。何のことかと考えてはみたが、中身が分からないと話にもならない。軽い気持ちでいたけれど、やはり思わぬ内容に驚く。「東京で暮らす知り合いの女性が、学さん宅の母屋(本宅)を貸してほしいとのことです。僕がまずは学さんに会って、詳しい話をしたいと思います。12月23日の夕方、ラーメンの材料を持ちながら妻と一緒に伺います」。使われていない木造住宅に注目してもらいとてもうれしいけれど、果たして現実にはどんなものか?。電気は通っていても、冬の朝-5℃以下に達することはあ るし、都会並みの暑さが夏のイメージとなる。家の間取りも広くて、リフォーム個所を除くとすべて10畳間(約16.56平方メートル)が続く。障子戸、ふすま戸の連続で、仕切りは断熱材の壁ではない。エアコンは1台もないので、ファンヒーター、扇風機が代行を果たすだろう。公的補助金からユニット・バスになった浴室も、もう14年は使用していないので、おそらく点検や修理が必須。かような環境だが、自分や母もここでどうにか暮らしていた。中には高齢の人でも、生まれ育った家を大切にしている。そこに住む人が、自分の暮らしに合う形に整えるのが適切ではないかと思う。私はおせっかいな考えでいた。
約束した時間にK先生夫妻が訪ねてくる。わが家のキッチンを利用して、夫婦はてきぱきとラーメンをつくりはじめた。「東京からくる人はNさんです。僕よりも年上で、養護学校の先生をされ、ヘルパー資格 も持っています。学さんが家での生活で何か困っていることがあれば、お手伝いができるかもしれません」。介護保険にしっかりと頼っているので、それ以外の方法で支援をしてもらうのは大変心強い。そして、空き家状態同然の母屋を使ってもらうとしたら、プラスアルファではないか。いまの生活拠点、別宅に移ってから母屋のこれからについて考え、コミュニケーション紙で紹介された不動産業者へ尋ねてみる。スタッフは間取りを確認して私に聞いてきた。「家賃を支払う側に立って仕切りを変えたい」のと説明があり、想定していない質問にどうしてよいか分からなくなってしまう。ご先祖様の財産、親子で過ごした家へ他人様に入ってもらうことを否定する母も黙ったきり。もう自分の手では負えない、それっきり・・・。ぽつんと頭に浮かぶ。K先生からの相談ごとを、母はどう受け止めているか。瞼を閉じ心に問いかける。「お前に言ったじゃないか。K先生の考えに従うんだよ」。もっともだ、迷いもない。Nさんと会い、堅実に向き合っていこう。
2025年1月25日、Nさんと初対面。思いつくと帰ってしまっていたが、そのわずかなタイムをメモしてみる。リビングルームで一声。「まあまあ、大きなテレビ。学さんはいつもここで一人で見るんですか?」。一目イメージは、はきはきとした活発そうなおばあさん。簡単な自己紹介で、私の歳は秘密ですと聞き、おばあさんと書くのは控えることにしよう。案内役で同行したK先生が改まった表情で話し出す。「仕事先の都合から村内への移住が、もう1年先になってしまったのです。申し訳なかった」。詫びてもらうほどのことではないし、お元気そうなNさんと出会えてよかったと思う。お土産に箱入りの和菓子と緑茶をいただく。 「お菓子を食べるときはお茶と一緒にどうぞ!」。何だか普通以上の気づかいがありびっくりするし、またそれが新鮮な感じを受ける。メールでのやりとりを重ねながら、この先Nさんという人物像を知りたい。お互いを分かち合う時間を与えてもらえて、来年が楽しみになりそう。
記憶を呼び起こすと10年ほど前のことになる。共生学舎の高校受験塾生のみなさんと一緒に、ミッキーマウスでお馴染みの千葉県浦安市・東京ディズニーシーへ連れて行ってもらう。ディズニーランドの言葉はたまに聞いて はいたが、卒業旅行の行き先となったディズニーシーは初耳のおじさんと化す。目的地までの貸し切りバスに揺られ、首都高速湾岸線を走り、東京湾アクアラインを眺めてみた。リゾート内は班ごとに分かれ別行動となり、K先生が私のつき添いとなって行動を共にしてもらう。3月中旬、伊那谷はまだまだ寒いのに菜の花畑が広がり、人並みもすごかった。リゾートのアトラクションで印象に残るのは、トランジットスチーマーライン、タワー・オブ・テラー。小型蒸気船に乗って、ニューヨーク都心を船旅してその地気分満喫、後者はエレベーターで最上まで登り、建物が揺られる恐怖を体験。外には、ミッキーマウスらが愉快なふりを見てくれている。アメリカ版おとぎ話の世界へたどり着いたみたい。どこかで食事を摂ろうという話になり、敷地内を走るモノレール・ディズニーリゾートラインに乗ってみた。車いす利用者でも一人で乗り降りができる設計であり、偶然にも目の前で、車いす利用の女性が乗る姿を見ながら、K先生に自分の車いすを押してもらい、私たちもモノレールに乗り込む。都会におけるバリアフリーのありさまを思い知らされた。翌日未明、貸し切りバスで帰路につく。私の隣の席にいた女子中学生は、現在病院で働く看護師さんだという。旅の出会いもまたよい。
(書きはじめのドラマの続き・・・)一人娘を地震で亡くした男性が、立ち直るまでには相当の時間を費やす。靴店を経営しながら、娘の健やかな 成長を願っていた矢先のできごと。忘れられない、(娘との)思いの詰まった家を手放せない。まわりの支えから次第に、前に進もうと必死の男性。「わが娘は、ここにいる」。ポンと、自分の胸を叩くと、震災地を後にして日本一の靴職人を目指し東京へと旅立つ。前向きになれば、新たな出会いが生まれていく。私も同じ気持ちで、いろいろな人と触れ合っていきたい。K先生から紹介があったNさん。これからよろしくお願いいたします。
2025/2/24
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