Mana kunchi no heya
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文章書き、食べ物、写真、脳性まひ、希望、夢、前向き、介護職員、ヘルパー、電動車いす、散歩、パソコン、ホームページ作成、ラーメン、うどん、握り寿司、長野県、喬木村、不自由さのないマイナス面をプラスに持っていく生き方のページです。


 子ども本を読まないのに なぜ書けるの? 子ども

 2024年8月

「あのことが起きて、もう8年になるのか」。令和6年7月26日、村社協デイサービス「ふれ愛」で新聞記事に目が留まった。神奈川県の北部、相日本地図模原市にある県立知的障害者福祉施設が午前2時からの1時間、予想だにしない殺意の場所に化してしまう。死亡者数19人はすべて入所者で、26人の負傷者も施設職員と入所者だった。犯行に使われた刃物は計5本。腹腔内出血、血気胸、残り17人が失血死で、何の抵抗もできずに亡くなる。犯人の元職員は漏らす。「意思疎通のできない重度の障害者は不幸かつ社会に不要な存在であるため、重度障害者を安楽死させれば世界平和につながる(ネットから抜粋)」。この思想が動機だとすると、まったくの愚か者としか言いようがない。


当時、戦後まれにみる殺人負傷事件として、マスコミ各社は大きく報道に費やす。社会福祉のあり方が問われらたり、人々の意識改革にもよい方向にあった。終身入所施設だけではなく、地域に根を張るような開かれた障害者グループホームなどの施設を増やす提案が相次ぐ。実際には全国で同様のグループホームがあり、一定の成果が達成食材と栄養士されてはいる。しかしながら、全国組織の福祉事業会社による疑惑が取りざたされて久しい。利用者の食材費を国(障害福祉サービス)に過大不正請求したほかに、食事内容がよくなく栄養失調の人が出る始末だという。こうでもしないと、グループホームの健全運営は難しいのであろうか。なんとももどかしい。8年前の教えは、どこへ行ってしまったのか。


この年、私は母と2人暮らしで、どうにか息をしていた。「お母さん、介護保険サービスを使ったらと思うんだけど・・・」。問いかけると、母は一言投げかけてきた。「そんなことになったら、ご飯も作ってあげられないよ」。確かにそうだ。介護が必要となるようでは、施設入所も視野泣くに入ってくるし、心配ごとが増すであろう。2人で暮らせることが、とても大切だと改めて思い直し、もう一つがんばり、親子の時間を途絶えないようにしたいと誓う。その裏側には、母に先立たれたあとの不安感が募りはじめていた。「どうすればいいのか。自分は介護保険第2被保険者になれるかな」。脳性まひ後遺症があっても、16疾患からなる特定疾患の項目には当てはまらず、満65歳までは障害福祉サービスを利用していくしかないと思っていた。


介護保険サービスでなくても(障害福祉サービスは)利用負担額がゼロでむしろ、このままでも問題はない。では、こだわりとは何なのか。「物心ついたら、障害児療養施設で生活していた」。はじめて親元を離れて、同じ境遇の仲間と暮らした日々は、泣いてばかりいた自分、家族もまたつらい思い出となる。いずれ独り者になって身体が動かくなったら、高齢障害者施設の門を潜らなければならないかと感じていた。弱気な心を少し上向うなぎ屋きにしたのは、ごく身近にいるお年寄りとの触れ合いであった。母と一緒に地区の食事会に出てみたら、私に近寄るおじさんやおばさんの声が聞こえてくる。「学君、元気?。そこにあるものをいっぱい食べなんよ」。現在、利用している短期入所先へ障害福祉サービス扱いにて行ってみたのは、13年前のこと。「おじさんはな、うなぎ屋をやっとったんだぞ」。親近感帯びた利用者の一言に温かみを覚える。親と同年代の人と接していけたら、障害者施設に隔離されずに余生を過ごせるかな?。子供っぽい単純な思考が生まれ、次第に希望へと変わっていく。


村内にある開業医の先生に、思い切って胸の内を明かす。「障害福祉サービスではなくて介護保険サービスを使いたいのだね。宮脇君の場合、16ある特定疾患に該当しないとね」。先生から把握していた説明を聞いたあと、極秘扱いの情報を話してくれる。だが、到底それはなすべきことではなかった。


一寸先は分からないものだ。令和2年の春、慢性心不全が悪化し入退院を繰り返していた母が力尽きてしまう。その日、疲れがたまっていたわが身にも異変が起きた。首に激痛が走り、歩行困難を来たし、ほぼ寝たきりの身体に変わり果ててしまった。「なぜ、こんな事態に遭わなければならないのか」。ベッドでの生活を、もうどうにもならないと思いつつも、訪問してくれるヘルパーさん、支援者の真心に励まされる。与えられた回数で自宅と入院生活をしながら、頚髄症の固病院のベッド定手術に向けて希望の光が見えた。自信がついたかのように、徐々にベッドから離れ、電動車いすでの生活に還ることができた。8時間に及んだ大きな手術を無事に終え、その結果が形として現れたので、身も心も救われた思いである。「まだまだやっていくぞ」。一つのヤマを越えて前向きな気持ちが、自分の心を支えることになった。


16の特定疾患のうちで、この身体が当てはまった病気は「脊柱管狭窄症」。簡単に説明してみたい。「脊椎にある脊柱管が狭くなって神経が圧迫されてしまい、痛みやしびれを引き起こす病気だという。原因とされているのは、加齢歩くや労働、背骨の病気の影響で背骨、椎間板、靱帯などが変形することで起こるそうだ。またこの病は、中高年から増えはじめるのが特徴で、特定疾患として認められているのは、頚椎、胸椎、腰椎のうちいずれか1つ以上に脊柱管狭小化があり、画像所見と症状に因果関係がはっきりしていなければならない(ネットから一部抜粋)」。医師から話を聞いてみても、自分は紛れもない脊柱管狭窄症だと理解をしている。いや、これを肯定するべきではなくて、歩行ができていたときに還りたいというが本当の気持ちだ。考えや物事っておかしなものだとつくづく思う。


介護のランクは要介護4となり、希望をしていた介護支援専門員がAさんと決まった。月のケアプランも作成ができて、案内人202211月の退院時から介護保険サービスを使いはじめる。最初の5ヵ月間は約10日を自宅で過ごし、残り21日間ほどは病院の療養ショットスティでの生活だった。「病院とは切り離し、地域で暮らしていきたい」。Aさんに自分の願いが通じて、短期入所施設を15日間で利用していく。来年6月には(介護保険)第1号被保険者となり、新たな一歩のスタート。介護負担額の変更はないと思うが、新たに利用ができるショートスティ施設で現場をよく見てきたい。介護支援専門員さんがそばにいて一つの要望が叶っていくも、介護保険ならではの魅力だと考える。そして、負の面も一緒についていき、悩みが自分を困らせてくれるはずだ。


介護保険制度はとてもありがたいが、身体あっての自分である。生前、両親はがんを患っており、自分が同じ病と直面するかも分からない。父母の苦しかった思いを無駄にしないよう、健康管理に努めていく。その心構えが、一人暮らしでの幸福を呼び込むものであると信じていきたい。介護職員をはじめ支援者へ、感謝の気持ちを忘れずに・・・。


神奈川県立知的障害者福祉施設で起きた大事件は、自身にも衝撃が強過ぎた。単独犯の植松聖(さとし)は、取り調べの段階でこう話す。(入所者及び同僚を)ナイフで刺したことを認めたうえで「施設を辞めさせ一緒られて恨んでいた」と打ち明け、入所者に限らず「障害者なんていなくなってしまえ」と、供述もした。教員免許状まで持っていた者が、どうして何人も尊い命を奪う結果となったのか。この事件を目あたりにして、自分の残された生活設計の参考にもなったと思う。「世の中にはいろんな人がいて、みんなそれぞれに精一杯生きようとしている」。こんな考えが広まっていけたら、障害という区別など存在しないであろう。


津久井やまゆり園事件。「もう8年にもなるが、まだまだ何も変わっていない」。一人ひとりが見つめ直し、同じような事件や問題がクローズアップされることのないよう切に願う。

2024/08/31

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